2015年08月25日

堀北真希、電撃婚の陰に今春恋人との別れがあった/山本耕史 堀北にフラれ続けた6年明かす「もう来ないで」…交際飛び越え求婚

堀北真希、電撃婚の陰に今春恋人との別れがあった

電撃結婚の背景には、堀北真希(26)の強い結婚願望があった。わずか交際2カ月でゴールインした堀北と山本耕史(38)のビッグカップル。異例のスピード婚は、女性としての幸せをつかみたいと強く願った堀北の思いが、タイミングよく通じた結果だった。

いくつもの条件が重なった結果だった。親しい知人によると、もともと堀北は結婚願望が強かった。仕事は順調そのものだったが、周囲に「結婚して、早く子供がほしい」と折に触れて話していたという。

これまで、交際に関する報道はほとんどなかったが、ある関係者によると、過去に静かに愛をはぐくんでいた男性の存在もあったという。CM契約を多数抱える人気女優だけに、交際はもちろん、結婚を決めるタイミングが重要。別の関係者は、交際していた男性について「結婚するという結論に達しなかったこともあってすれ違いが生じ、今年春ごろに交際を解消したようです」と証言する。

山本と6年ぶりに再会したのは、夢だった結婚をあきらめた直後だった。再会のきっかけとなった共演舞台「嵐が丘」は今年5月。以前から堀北に対して好意を抱いていた山本と急速に距離を縮めることができた背景に、その強い結婚願望があったことは十分に考えられる。

山本と親しい関係者は「山本さんは、とにかくマメな人。優しい言葉をかけることも多く、演技に悩む共演者にも、ごく自然な感じでアドバイスする」と話す。共演を機に堀北が山本に対し、支えてくれる存在と意識し始め、交際するなら結婚前提というこだわりも山本に受け入れられた。

別の知人はスピード婚に至る経緯について「あくまでも結婚を意識した関係だったので、交際が明るみに出るなら、正々堂々としたいという思いが強かったようです。これが決断につながったようです」と話す。

関係者によると、ステージママとして知られる山本の母親も、穏やかでまじめな性格で、女優としての評価も高い堀北との結婚前提の交際には、最初から賛成だったという。

山本耕史 堀北にフラれ続けた6年明かす「もう来ないで」…交際飛び越え求婚
女優・堀北真希(26)と22日結婚した俳優の山本耕史(38)が24日、フジテレビ系「とくダネ!」の独占インタビューに応じ、初共演時から猛アタックを続けてきたが、6年間フラれ続けていたことを明かした。今年5月に舞台で共演し、毎日約40通の手紙を渡し続け、いきなり「結婚しましょう」とプロポーズしたことなど、結婚秘話を明かした。
結婚を報告する直筆ファクスで「今年5月『嵐が丘』での共演まで願ってのこの度の入籍となりました」とつづり、6年前の初共演時から抱き続けた堀北への思いを文面ににじませていたが、片思いから「交際」を飛び越え、一気に「結婚」に突き進んだ“舞台裏”を自らの言葉で明かした。インタビューは23日に行われた。

 2人は09年4月期のドラマ「アタシんち」で初共演。「すごい芯があるというか、(肝が)据わっているというか」と好意を抱き、連絡先を聞いたが、教えられたのは「事務所の(電話)番号でした」と相手にもされなかった。

 翌10年には「わが家の歴史」で夫婦役で共演。クランクアップの日に「打ち上げで飲みに行こう」と誘ったが「行きません」と再び、フラれた。

 その後もめげることなく、堀北が舞台をやれば、楽屋にあいさつに行き、「そろそろメールアドレスか携帯の番号を教えてもらえませんか」と直筆の手紙を渡し、アタック。しかし「何の反応もなかった」。

 12年には堀北がNHKの朝ドラ「梅ちゃん先生」に主演。山本が出演するNHK大河「平清盛」の撮影スタジオはちょうど隣で、毎日、衣装のまま堀北のスタジオに顔を出し、「もう来ないでいいですから」とまで言われたという。

 そして今年。5月上演の舞台「嵐が丘」で恋人役での共演が決定。フラれ続けた6年間を思い、「僕でいいんだろうか」と一瞬、思ったというが、そこはめげない山本。けいこの後半から毎日、40通近い手紙を書いて渡したという。堀北からの返事は、一通もなく、電話番号も教えてもらえなかった。

 迎えた千秋楽。「せめて俺のを教えさせてください」と再び自分の番号を教えると、その夜、やっとLINEで返事が来たという。

 その後、堀北が京都入りすることを聞き、新幹線での“待ち伏せ”を狙い、「勘で新幹線をとった。これで(堀北が)乗っていたら、奇跡というか、運命というか」。東京駅から乗ると、堀北は奇跡的にも品川駅から乗ってきた。山本は「思いのつまった」指輪を堀北に渡し、「交際じゃなくて、『結婚しましょう』と言いました」と、「交際」を飛び越え、いきなり求婚したことを告白。

 「彼女にとって“結婚”っていうのは、とっても大きなものだったらしく、そこに僕がぱっとその言葉を言ったらとっても思いが刺さったようで」と6年間の思いが通じた瞬間を笑顔で振り返った。
posted by ぴかまま at 09:25 | Comment(0) | TrackBack(0) | 芸能

2015年08月23日

DAIGO涙のゴールに「人生を描いているかのよう」 (webザテレビジョン) /『24時間テレビ』続く理由 初回・高校生の一言からの大拍手 (NEWS ポストセブン)

DAIGO涙のゴールに「人生を描いているかのよう」 (webザテレビジョン) - Yahoo!ニュース
8月22日から23日にかけて日本テレビ系で放送された「24時間テレビ38 愛は地球を救う」で、24時間の100kmのマラソンに挑戦したDAIGOが、メインパーソナリティーのV6とHey! Say! JUMPらに迎えられ、涙を見せながら8月23日夜8時44分にゴールした。
DAIGOは「本当にタスキをつなげられて良かった。100kmマラソンは一人の人生を描いているかのようだった。すてきな人生でしたよ」と長い道のりを人生に例えながら語った。

涙の理由については「プレッシャーや不安がある中で、達成できたという気持ちが一気に出てしまった。あんまり泣かない人なんですけど…」と胸の内を明かした。

さらに「僕も『サライ』を一緒に口ずさめて幸せだった。ただ僕がここにいていいのかな…と思っていた。僕が真ん中で座ってて、後ろに谷村(新司)さんや加山(雄三)さんが立ってるなんて…」と感慨深げ。

また「いろいろな人がいる中で、いろいろなきっかけでつながれるんだなぁと思いました。このタスキでお会いしたことがない人ともつながることができました」と語り、日本全国の思いをつなぐタスキリレーアンカーとしての役割を終えた。

番組の放送終了後には「自分じゃないようなパワーが出せました。24時間テレビマラソンで走ることができて本当に良かったと心から思います。ありがとうございました」と会場に集まったファンたちに感謝の言葉を述べた。

その後水卜麻美アナウンサーから「DAIGOさんはこの後メディカルチェックがありますので、これでお休みしていただくことになります」と促されると、DAIGOは「メディカルチェックなんてあるんですか、“MD”が? それは行かないとだ」と24時間の疲れを見せずにおどけてみせ、去り際には得意の“ロックポーズ”を披露し会場を後にした。

見事、100kmマラソンを完走したDAIGO。この激走の舞台裏は8月24日(月)夜9時より「密着!DAIGO24時間マラソン舞台裏〜タスキの想いをつないだ激走100km〜」(日本テレビ系)にて明かされる。


『24時間テレビ』続く理由 初回・高校生の一言からの大拍手 (NEWS ポストセブン) - Yahoo!ニュース
1978年の第1回放送から37回目を迎えた日本テレビ系の『24時間テレビ 愛は地球を救う』(8月22・23日放送)。今年は、チャリティーマラソンランナーにDAIGOが選ばれ、100キロを走る予定だ。このコーナーは1992年から設けられ、名物企画となっており、今では“マラソンのない24時間テレビ”を知らない世代も多数存在するようになった。

 そもそもの『24時間テレビ』の始まりを振り返ると、当時の大人気番組『11PM』(日本テレビ系)までさかのぼる。同番組は1975 年から「スウェーデンの福祉」などの企画を年に3回ほど放送しており、都築忠彦プロデューサーがその延長線上で『24時間テレビ』を発案。日本テレビは『開局25周年記念特別番組』として、1978年に1回きりの放送をする予定だった。

 その時のテーマは『寝たきり老人にお風呂を! 身障者にリフト付きバスと車椅子を!』と明確に掲げられており、『11PM』の司会者でもあるキャスターを務めた大橋巨泉は番組の最後に、「(募金額の)99%が1円玉、5円玉、10円玉だと思うんですね。金額は少なくとも量は。ということは、決して豊かでない人たちが僕たちの企画に賛成してくれて、募金してくれたと思うんです。僕が言いたいのは、福田(赳夫)総理大臣を始め、政府の方、全政治家の方に、本来はあなた方がやることだと思うんです。ですから、福祉国家を目指して良い政治をして頂きたいと思います」と時の政権に訴えかけていた。

 チャリティーという意識が浸透していない時代に、『24時間テレビ』の持つ意義はとても大きかった。

 第1回目のチャリティーパーソナリティは萩本欽一、大竹しのぶが務め、番組キャスターには東京では大橋巨泉、竹下景子、大阪では横山やすし、西川きよしが起用された。

 また、現在の番組テーマ曲はエンディングで必ず歌われる『サライ』だが、第1回目は「番組シンボル」であるピンク・レディーが、テーマ曲『2001年愛の詩』を歌っていた。電話で視聴者からのメッセージを受け付けると、その電話は鳴り止まない。時には欽ちゃんなどのタレントが話し込む場面もあった。24時間で189万本もの電話があり、スタジオに繋がったのはたったの7万本。3.7%の確率でしか繋がらなかった。古参の芸能記者が話す。

「初開催とあって、とにかく盛り上がりが凄かったんです。代々木公園で行なわれたグランドフィナーレには、萩本欽一と大竹しのぶ、ピンク・レディーが登壇。テレビを見ていた視聴者が会場に押し寄せ、後方のカメラからでも入りきらないほどの人だかりとなりました。欽ちゃんや大竹がステージの上から客席に手を伸ばし、直接募金をもらいに行くと、波を打つように人が集まってきました。

 また、街頭で募金を集めていたタモリが黄色いTシャツと白い短パン姿、青と白のシマシマ靴下で、なぜか聖火ランナーとして登場。聖火台に点火していました(笑)」

 現在はジャニーズ事務所所属タレントが司会を務めることもあり、会場となる日本武道館には女性ファンが大半を占めている。しかし、第1回目の代々木公園には男性や子供ばかりだった。

「人気絶頂のピンク・レディーがいたからという理由もあるでしょうが、それ以上に番組に対する熱狂が凄かった」(同前)

 サポート役として進行していた徳光和夫氏(当時日テレアナウンサー)が会場へ降り、「こんなことを欽ちゃんたちに言いたいということがあれば、手を上げてください」と質問を募った。すると、千葉から訪れた高校3年生の男子が熱く訴えかけた。

「欽ちゃんさ、あの聖火みたいにさ、今日1日で消さないでさ、ずっと続けてよ。これ消えちゃったら、つまんないじゃない? タモリも頑張ってよ。どんどん訴えて、笑いで」

 会場からは拍手が巻き起こり、欽ちゃんも「そうだよなあ!」と呼応。「笑いで訴えて」と言われたタモリは「わかりました」と冷静に対応していた。

 この熱狂ぶりに、当時の小林與三次日本テレビ社長が舞台裏から突然登場。欽ちゃんからマイクを奪い、「全国の皆さん、ありがとう。心から御礼申し上げます」と感謝。欽ちゃんが会場を指差し、「また来年もやってくれと言ってますよ」と問い掛けると、「ご支持いただくなら、何度でもやります! そういう必要がある限り」と力強く宣言。すると、会場からは小林社長の声をかき消してしまうほどの大拍手が巻き起こり、翌年以降の開催も決まったのである。

 盛り上がりに比例するように、最終的な募金額は12億円近くに上り、日本初の大型チャリティー番組は大成功に終わった。あの熱狂から37年。今も番組は続いている。 
posted by ぴかまま at 09:48 | Comment(0) | TrackBack(0) | 24時間テレビ
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