2008年09月28日

<訃報>ポール・ニューマンさん死去「明日に向って撃て!」

<訃報>ポール・ニューマンさん死去「明日に向って撃て!」9月27日23時25分配信 毎日新聞


 【ロサンゼルス吉富裕倫】AP通信によると、映画明日に向って撃て!」や「スティング」などで知られる米映画界を代表する俳優の一人、ポール・ニューマンさんが26日、がんのため死去した。83歳だった。

 オハイオ州でスポーツ用品店を営む裕福な家庭に生まれ、母親の勧めで児童演劇団に入団した。第二次世界大戦中には海軍に入隊し、除隊後、大学を経て俳優養成所で演技を学んだ。1953年にブロードウェーの舞台でデビューし、55年の「銀の盃(さかずき)」で映画デビュー。一時テレビに活動の場を移すが、実在のボクサーを演じた56年の「傷だらけの栄光」の迫真の演技で注目された。男らしくセクシーな正統派の二枚目であると同時に、反抗心を秘めた危険な香りも漂わせ、複雑な感情を巧みに表現する演技派としても重用された。

 「ハスラー」(61年)、「明日に向って撃て!」(69年)、「スティング」(73年)、「タワーリング・インフェルノ」(74年)など次々と話題作に出演しスターの地位を固めた。68年には「レーチェル・レーチェル」を監督し、アカデミー賞候補になった。「スクープ・悪意の不在」(81年)、「評決」(82年)など社会派作品でも重厚な演技を見せた。何度もアカデミー賞候補になりながら受賞には縁がなかったが、86年「ハスラー2」で主演男優賞を受賞した。

 一方で、ベトナム戦争反対や反核運動に参加するなど、社会的活動にも積極的に取り組んだ。自動車のレーサーとしても活躍し、79年のル・マン24時間耐久レースで2位に入賞。82年には食品販売会社を設立し、ドレッシングなどを発売して成功を収めた。私生活では2度目の結婚で、女優のジョアン・ウッドワードさんとおしどり夫婦として知られた。長男のスコットさんも俳優だったが、78年、麻薬中毒で死去したことから麻薬反対活動に資金を提供。事業の利益を寄付するなど、慈善活動にも熱心だった。日本の障害児のためにと毎日新聞社会事業団を通じ、93、94、97年に寄付したことがある。

 最近では脇役で渋い存在感を見せ、05年にテレビドラマ「追憶の街エンパイア・フォールズ」でエミー賞とゴールデン・グローブ賞を受賞。晩年まで活躍したが、07年5月、「満足できるレベルの役者でいられなくなった」と俳優引退を表明した。今年6月、がんで闘病中と報じられていた。

 ★ニューマンさんの主な出演作

55年 銀の盃(デビュー作)

56年 傷だらけの栄光

58年 左ききの拳銃

61年 ハスラー

62年 ハッド

69年 明日に向って撃て!

73年 スティング

74年 タワーリング・インフェルノ

82年 評決

86年 ハスラー2

(アカデミー主演男優賞)

94年 ノーバディーズ・フール 

 ◇精神が自由で柔軟

 映画評論家、佐藤忠男さんの話 直情径行型の青年役から出発したが、上手に年輪を重ね、食えない中年男を演じられる柄の大きさを身につけた。精神が自由で柔軟だったのだろう。反戦・反核など社会活動にも熱心だったといい、その幅の広さ、底の深さは、いかにもアメリカ的だったと言える。得難い俳優を失った。

 ◇陰ある演技見せた

 評論家、川本三郎さんの話 ゲーリー・クーパーやクラーク・ゲーブルら戦前からの男優が強く明るい英雄を演じたのに対して、戦後に現れたニューマンさんらの世代は「負け犬」的なヒーロー像を体現した。中でも「ハッド」で見せた彼の陰影ある演技は忘れがたい。彼の存在が60年代後半のニューシネマの方向を示した。理想的な俳優人生を送ったと思う。

★★★

ポール・ニューマン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ポール・ニューマン(Paul Newman,本名:Paul Leonard Newman, 1925年1月26日 -2008年9月26日)は、アメリカ合衆国の俳優。3度のアカデミー賞受賞を初めとして数多くの受賞歴を持つ。また、食品製造会社「ニューマンズ・オウン」の設立者であり、1982年の設立以降挙げた純利益2億2千万ドルを全額寄付。その他レーサー、政治運動家としても多くの功績を残す。1950年代以降半世紀以上にわたり第一線で活躍した人物。

オハイオ州クリーブランドで、スポーツ用品店を経営するハンガリー系ユダヤ人の父・アーサーと、同じくカトリックの母・テレサとの間に生まれる。幼い頃は脆弱で学校でいじめを受けていた。7歳の時、演劇好きの母の勧めで児童演劇団に入団。『ロビン・フッド』の道化師役で舞台に立つもポールは演劇に関心を示さなかった。12歳の時、クリーブランドの児童演劇部に入部。高校卒業後は定職に就かず百科事典の訪問販売などで生計を立てていた。その後、家業を継ぐためにアセンズのオハイオ大学経済学部で学ぶが、第二次世界大戦が勃発し海軍に入隊。航空機操縦士を志願するが色盲により叶わず。 その後、爆撃機、雷撃機の後部銃座手(兼無線手)の訓練を受ける。 1944年、航空機無線手としてハワイのバーバーズポイントに割り当てられ、その後雷撃隊に配置される。 TBF/TBM アベンジャーの後部銃座手となり1945年春、空母バンカーヒルに乗艦し沖縄戦に参加。

●紆余曲折を経て演劇の道へ
終戦後にオハイオ大学を経て進学したケニヨン・カレッジではフットボールに打ち込むも、チーム内の喧嘩が原因で除名処分を受けたため、子供の頃に学んだ演劇の道を志す。卒業後、地方の劇団を渡り歩き演劇の修行に励む傍ら1949年に結婚。翌年に父親が他界すると一旦家業を継いだが、演劇講師になるための学費を工面するために父の代から続いた店を売却。進学先であるイェール大学大学院で披露した演技がエージェントの目に留まり、ニューヨークに招かれた。テレビドラマや舞台における演技が認められ、1952年にジェームズ・ディーンやマーロン・ブランドと共にアクターズ・スタジオに入学。

●賞賛と挫折
初の大役となったブロードウェイの舞台『ピクニック』での演技が映画関係者から高い評価を受け、ワーナー・ブラザースと5年間の専属契約を交わす。アクターズ・スタジオに同期で入学したディーンが主役を演じた『エデンの東』では、当初主人公の兄を演じる予定でスクリーン・テストまで行ったものの、監督のエリア・カザンがニューマンの出演を却下。1954年に『銀の盃』でスクリーンデビューを果たすものの、作品自体が映画評論家から失敗作の烙印を押されるという不本意なデビューとなった。ディーンとブランドがそれぞれ『エデンの東』『波止場』でトップスターへと上り詰める一方で、ニューマンは満足のいく作品に出演できないうえ、スタジオや批評家から「第2のマーロン・ブランド」と称されることに失望し映画界を離れ、活動の拠点を舞台とテレビドラマへ移した。

●俳優としての成功と再婚
舞台とテレビドラマにおける演技が賞賛されたニューマンは、ディーンの急逝により主演のポストが空白となっていた映画『傷だらけの栄光』に、監督のロバート・ワイズの依頼を受け出演。実在のプロボクサー、ロッキー・グラジアノの話し方や癖を模倣するなど、徹底した役作りを敢行した末に臨んだ同作は高く評価され、一躍注目を浴びる存在となった。1956年に最初の妻と離婚。1958年、先述の舞台『ピクニック』で知り合った女優、ジョアン・ウッドワードと、映画『熱く長い夜』での再共演を機に再婚。6人の子を儲ける鴛鴦夫婦となる。さらに同年の映画『熱いトタン屋根の猫』で初めてアカデミー主演男優賞にノミネートされるなど、公私共に充実した時期を迎えた。

● No.1スターから監督業進出
1960年代はニューマンにとって順風満帆そのものであった。1961年の『ハスラー』で英国アカデミー賞の男優賞を受賞すると、1963年の『ハッド』での受賞を機に1965年と1967年の3度、ゴールデングローブ賞の「世界で最も好かれた男優」に選出された。さらに、妻のウッドワードを主演に起用した初監督作品『レーチェル レーチェル』では、同年度のアカデミー賞で作品賞を初めとした4部門にノミネートされたほか、ゴールデングローブ賞とニューヨーク映画批評家協会賞では監督賞受賞に加えて妻に女優賞を齎した。

1969年にロバート・レッドフォードと共演したアメリカン・ニューシネマの西部劇『明日に向って撃て!』は生涯最高のヒットを記録。マネー・メイキングスターの1位に選出され、トップスターとしての地位を不動のものにした。さらに製作者としての飛躍を求めてシドニー・ポワチエ、バーブラ・ストライサンドと共に映画製作会社「ファースト・アーティスツ」を設立した。

●レーサー・政治運動家・父子共演
「ファースト・アーティスツ」設立後初めて製作を担当した映画『レーサー』でのレーシング・スクールへの参加を機にカーレースに熱中するようになり、44歳にしてレーサーとしてプロデビューを果たした。俳優業でも成功は続き、1973年の『スティング』ではレッドフォードとの競演の末、同年度のアカデミー作品賞を受賞。翌1974年の『タワーリング・インフェルノ』での報酬は100万$に達し、息子のスコット・ニューマンとの共演も実現した。

ベトナム戦争の敗北を目の当たりにしたニューマンは、積極的な公民権運動ならびに反戦運動を展開。活発な運動と過激な発言は、当時のアメリカ大統領であるリチャード・ニクソンを敵に回す結果になり、1973年にホワイトハウスが公表したブラックリストにその氏名が記載された。

●出演作品の不発と愛息の死
1975年にカール・ハースとともにニューマン・ハース・レーシング(現「ニューマン・ハース・ラニガン・レーシング」、en:Newman/Haas/Lanigan Racing)を結成し、CARTに参戦した。1977年のデイトナ24時間レースで5位を記録すると、1979年のル・マン24時間レースでは2位を記録。レーサーとしても華やかな成功を記録した。その一方で、俳優業は不振が続き『タワーリング・インフェルノ』のアーウィン・アレンと再びタッグを組んだパニック映画『世界崩壊の序曲』は興行的に大失敗したうえ批評家からは「史上最低のパニック映画」と酷評され、ニューマン自身も同作への出演を後悔する旨の発言をする始末であった。さらに1978年には、大スターの息子である重圧に耐えかねたスコットが酒とドラッグに溺れ命を落とした。愛息の死を嘆いたニューマンは、麻薬撲滅運動の展開を決意。ドラッグで命を絶たれた息子の名を冠した「スコット・ニューマン基金」を設立し、ドラッグの弊害を描いた映画やテレビ番組に対する資金提供を行っている。

● ニューマンズ・オウン設立とアカデミー賞受賞
1970年代後半は不振続きであった俳優業も、1980年代に入ると1981年の『スクープ・悪意の不在』から『アパッチ砦・ブロンクス』『評決』と立て続けに出演した社会派作品でリアリティのある演技を披露し新境地を開拓した。また、自家製のサラダを自慢していたニューマンは1982年、冗談半分で食品会社「ニューマンズ・オウン」を設立。極力食品添加物を排除したフレンチ・ドレッシングは好評を博し、スパゲッティーのソースやポップコーンの販売にも着手。日本では日本アムウェイが商品の販売に参入するなど、ニューマンの知名度も相乗効果を齎し、瞬く間に世界規模での事業拡大に成功。純利益を全額、貧困に喘ぐ子供たちに寄付している。

俳優としても1983年にゴールデングローブ賞の生涯功労賞に相当するセシル・B・デミル賞を受賞。さらに1985年、長年の功績を称えられ、アカデミー名誉賞を受賞。翌1986年には『ハスラー2』での演技が認められアカデミー主演男優賞を受賞。2年連続でオスカー像が授与され、アメリカ映画界にその名を残す俳優となった。

● 俳優・実業家としての成果、引退
還暦を超えても第一線での映画出演を続けたニューマンは、1994年の『ノーバディーズ・フール』でベルリン国際映画祭などで数多くの男優賞を受賞。2002年の『ロード・トゥ・パーディション』で9度目となるアカデミー賞ノミネート(初の助演男優賞部門)を果たすと、傘寿を迎えた2005年にはテレビドラマ『追憶の街 エンパイア・フォールズ』でゴールデングローブ賞とエミー賞を受賞。2006年には、ピクサーのアニメーション映画『カーズ』でメインキャストのドック・ハドソン役で声の出演を担当。止め処無く活躍を続けるニューマンに対し、一部映画関係者からロバート・レッドフォードとの最後の共演作品が企画されるなどさらなる活躍が期待されていたが、2007年5月25日、出演したABCテレビの番組において、加齢による演技力・記憶力の衰退から自分の納得する演技が不可能になったと語り、俳優としての活動を引退することを正式に発表した[1]。

ニューマンにとってプライベートでの著名な活動の一つである「ニューマンズ・オウン」は4半世紀に及ぶ運営で挙げた2億2千万$の純利益を全額恵まれない子供たちに寄付。1993年にはその功績に対しアカデミー賞のジーン・ハーショルト友愛賞が贈られた。俳優としての活動に終止符を打った後は、これらの事業や家族とのコミュニケーションに専念する意向を示している。

2007年6月、中西部オハイオ州ガンビアの母校ケニヨン大に対し、奨学基金の設立資金として1000万ドル(約12億2000万円)の寄付を申し出た[2]。今回の寄付について「母校への個人的愛情や恩義」と説明。奨学金は家庭の事情で学費が払えない非白人のマイノリティー(少数派)の学生らに支給されるという。

2008年5月に年後半に予定していた舞台の監督を健康面を理由に降板すると発表して以降、健康状態について末期の肺がんで闘病生活を送っているとの報道が相次いでなされ、マネジメント事務所は「元気でやっている」とだけのコメントを発表をした[3]。

その後、報道は鎮静化していたが、既報のがんが原因で現地時間の2008年9月26日、コネチカット州ウェストポートの私邸に於いて逝去。83歳没
ポール・ニューマン - Wikipedia

名優ポール・ニューマン、余命わずか?「自宅で死にたい」と希望 ...
http://eiga.com/buzz/20080811/1

ポール・ニューマン) - goo 映画
http://movie.goo.ne.jp/cast/4237/


posted by ぴかまま at 06:25 | Comment(0) | TrackBack(0) | <訃報>ポール・ニューマン
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