2008年12月29日

昭和は遠くなりにけり 伝説の人、三浦百恵さんの変貌ぶり

百恵さん長男、ロックバンドのボーカルで歌手デビューしていた!

昭和は遠くなりにけり 伝説の人、三浦百恵さんの変貌ぶり
2008年10月4日(土)15時0分配信 内外タイムス

 過去にたびたび復帰説が流れた伝説の人、三浦百恵さん(49)が、久しぶりに公の場に姿を現したという。目撃した芸能関係者らは、あまりの“フツーのおばさん”ぶりに、「芸能界復帰は完全にない」と、驚きとともに、少し寂しい思いをしたようだ。

 「芸能生活において、一度でもスポットライトを浴びた人間は、たとえ引退宣言をしたとしても、“復帰願望”を抱くものですが、彼女はもともと持っていませんでしたし、先日、見た姿から考えると、このままずっと“伝説の人”であった方がいいと思いました。それほど彼女は変わってしまっていたように思いました」(芸能ライター)
 9月19日に脳内出血で亡くなった元・明治座プロデューサー、川口厚氏の葬儀・告別式が東京・新宿の落合斎場で執り行われたが、ここに、夫の三浦友和とともに百恵さんが現れた。
 「川口氏と友和は、かつて同じ事務所に所属。年齢が近いせいもあって、実の兄弟のように仲が良かったんです。また、三浦夫妻を結びつけた運命の恩人でもあったんです」(芸能リポーター)
 友和と川口氏は、友和のデビュー2作目「シークレット部隊」(TBS)で共演。また、一緒に「三浦友和と仲間たち」というバンドを組んでいた時代もあった。
 「川口氏は、百恵さんとも『赤い疑惑』(TBS)で共演したことがあるので、葬儀に参列するのは当然です。でも、驚いたのは久しぶりに見た百恵さんの容姿でした。すっかり“フツーのおばさん”体形に変化してしまっていたのです。あれが“伝説の人”山口百恵かと思ったら少しガッカリしました」(芸能リポーター)
 喪服で斎場にやってきた百恵さん。
 「体の線の出ない、ゆったりサイズを着ていて、顔はむくんでいるように見え、前・大阪府知事の太田房江氏をほうふつとさせました。いかにも“フツーのオバサン”という雰囲気でした」(芸能ライター)
 すでに成人している2人の男の子の母親であり、御年49歳、まして芸能活動を一切しなかったのだから、これは仕方のないことかもしれない。
 「それにしても、アゴのラインはたるみ、かつてのオーラはまったく消え失せ、かつて“百恵番”と言われたベテラン芸能記者からも驚きと落胆の声が上がっていました。これまで何度も復帰を取りざたされた百恵さんですが、現状ではありえないでしょう」(芸能リポーター)
 11月、三浦夫妻は28年目の結婚記念日を迎える。


山口百恵(やまぐちももえ、本名:三浦 百惠(みうら ももえ。旧姓:山口 やまぐち)、1959年1月17日〜)は、日本の元歌手・女優。東京都渋谷区恵比寿出身だが、幼少時を神奈川県横浜市瀬谷区、横須賀市で過ごした。横須賀市立不入斗中学校卒業。日出女子学園高等学校(現日出高等学校)卒業。 配偶者は、俳優の三浦友和(1980年11月19日結婚)、現在は東京都国立市在住、二男あり。

活動時の所属事務所はホリプロダクション(現ホリプロ)、レコード会社はCBSソニー(現ソニー・ミュージックエンタテインメント)に所属。

1972年12月、オーディション番組『スター誕生!』で、牧葉ユミの「回転木馬」を歌い、準優勝、20社から指名を受ける。
芸能界デビュー
1973年4月、映画『としごろ』に出演し、5月21日に同名の曲で歌手としてもデビュー。森昌子・桜田淳子と共に「花の中三トリオ」と呼ばれた。当時のキャッチコピーは「人にめざめる14才」。
『ひと夏の経験』の大ヒットした1974年には青春映画の名作『伊豆の踊子』に主演し、演技でも評価を得る。この映画で共演した恋人役の三浦友和とはテレビドラマやCMでも共演し、共に絶大な人気を博し、二人は「ゴールデンコンビ」と呼ばれた。百恵の主演映画13作のうち12作は三浦友和との共演である。

映画デビューした1974年10月からはTBSのテレビドラマ赤いシリーズ(いわゆる大映ドラマ)でも好演、高い人気を集め、6年にも及ぶ人気ドラマとなる。

1976年 にはブロマイドの年間売上成績で第1位に輝いた。この年リリースされた「横須賀ストーリー」から阿木燿子・宇崎竜童夫妻の作品を歌い、新境地を開く。結果として引退まで歌うことになる宇崎夫妻の作品の数々は、大ヒットの連続で、百恵の世界を決定的に形作った。しかし、この二人を作家として指名したのは、周囲のスタッフではなく、百恵本人だったという。

1978年の第29回NHK紅白歌合戦では紅組のトリを務めた。ポップス系のトリは、同年白組のトリを務めた沢田研二と共に初めてのことであった。最初に百恵のトリが決まり、百恵の婿選びという事で沢田が決まったが、大トリは先輩の沢田となった。また、10代の歌手が紅白のトリとなったのも百恵が空前絶後である。その記録は未だに破られていない。

所属事務所「ホリプロ」が東京都目黒区に建てた自社ビルは、百恵の成功によるところが大きいことから「百恵ビル」と呼ばれることもある。

1979年10月20日、大阪厚生年金会館のリサイタルでその役柄のイメージのまま、「私が好きなのは友和さんです」と、三浦との恋人宣言を突如発表する。原因はその前日の10月19日の夜、週刊誌にフォーカスされたのがきっかけである。そして翌1980年3月7日には三浦との婚約と同時に、「わがままな…生き方をわたしは選びました。(中略)お仕事は全面的に、引退させていただきます」と芸能界引退を公表し、ファンに大きなショックを与える。その一方で、迫り来る引退を視野に入れた形でのレコードのリリースや公演の予定を発表。1978年のキャンディーズで定着した引退記念興行が大々的に展開されることになった

現役最後のテレビ生出演は、10月13日放送の『山口百恵スペシャル ザ・ラスト・ソング』(日本テレビ)である。この時には、もう一切の涙を見せずに晴れやかな笑顔でサラリと手を振って、秋桜の花道の向こうに消えていった。正式な完全引退は10月15日のホリプロ20周年記念式典である。その時に歌った曲は「いい日旅立ち」である。引退時は21歳(22歳の誕生日の約3か月前)で、芸能人としての活動は僅か7年半程だった

結婚式は11月19日に東京都港区の霊南坂教会、披露宴は東京プリンスホテル・鳳凰の間で招待客1800人が出席して行われた(仲人は大映ドラマで百恵の父親役を数多く演じた宇津井健夫妻、友和側の主賓は東宝社長・松岡功、百恵側の主賓はCBSソニー会長・大賀典雄)。百恵の父親代わりはホリプロ社長・堀威夫。披露宴の司会はメインが岡田真澄、サブが徳光和夫であった。

山口百恵 - Wikipedia


posted by ぴかまま at 08:04 | Comment(0) | TrackBack(0) | 芸能
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